昭和43年11月4日  夜の御理解



  あの、御祈念にかからして頂く前に、善導寺の久保山さんがお届けで、あの、東京のかず子さんからきておる手紙を、後で良いから読んでくれ、後からで良いからということであったけれど、これには急ぎと書いてあったから、これは急いで(?)ことかもしれんと思って、御祈念前に読ませて頂いた、まあ読ませて頂いてから思うのですけれども、特に親一人子一人の、お~、ことでございますから、なおさらでしょうけれども、親が子供を思うと言うかね、もう切々たるあの思いが何か物を送られ、こっちに、純子さんがこちらにおりますから、まあ純子さんに物を送っておられることをまあ調べてやるお手紙でございました、本当にあのこういう親の思いというものを子供が裏切ったり、それを無視したり、してからおかげの受けられるはずがないと私は思うですね、もう親の思いがどうであってもその思いをね受けてたたしてもらうというところに信心があるんです、親の思いを分かるということが、ね、その親の思いを無視しておかげの受けられるはずが絶対にないですね金光様の御信心は、うん、ね、天地の親神様の、御心と言うか、いわゆる、え~、金光様の御信心のもう根本のところがですね、その親神様の思いが分かり、その思いに応えるというのがそのまま信心なのです、それがそのまま、あ~、み教えなんです、ね、「子供を持ってみて合点せよ」と、ね、天地の親神様が氏子一人一人の上に思うて下さっておるその思いを悟らしてもらうというところから、信心が、もう金光様の御信心が始まるのです、ね、ですから親が子を思う思いが切々であるように、またなら子供がその思いを分かって受けてたつ時にです、子供の思いはまた切々です。
  今日昼、4時の御祈念終わってからでしたか、ああそうそう今日はあの四日会でしたから、四日会、先生方の会があっとります半ばに、あの善導寺のコウブツさん達が、あ~、兄弟三人連れてお参りしてまいりまして、「お母さんが思わしくないから」とこういうわけなんである、それで私はそれで申しましたんですけどね、「本当にあの、子供が親の事を願う縋るということがね、もう誰が何と言うても誰が願ってもあんた達には勝たん」と私が言う、「だからその願いで、一つあのその思いで神様に願うて行きなさい」、私はあの一番、茶の間であってましたから、あの長い廊下をずっとくるにちにち頂くことが、あのどういうことであるかと言うと、ね、ここには間違いなしに、沢山のお恵みの水がここにあるということです、ね、お恵みの水がここに沢山あるから、ね、それを例えば、あの消化器の御用を子供達さしてもらいなさいと、ね、一代なら二代三代と継いで、ね、例えばお母さんの所が燃え上がろうとしておる、それを消し止めなければならない、灰になろうとしておるそれを言わば、未然におかげを頂かなければならない、ね、お水、水は確かにあることだけは間違いないのだここに、その証拠にはこれだけの沢山の人が助かって行きよる、ね、「だからあなた方が消化器の御用を頂きなさい、消化器になりなさい」と言うてまあ申しましたですけれどもね、私はもう子供が親の思いを分かってですね、そして切々として、え~その神様に願って行く、例えばうんなら、(?)のお母さんあたりでも、どんくらい、あれだけ熱心な信心頂いておりましたから、子供達が信心頂いてくれますとということを言うてお願いしたか分からない、それが自分の病気のことによって子供達が信心を分かろうと勤めるとするなら、親のこれにましたことはなかろうとこう思う、それがそのまま神様に通じるのです、ね、私は今日はあの、かず子さんのこの手紙を読ませて頂いてから、親っちゃこんなもんだろうかなと、本当にこの思いを子供がもし分からんなら、また無視するなら、もうこれはおかげ、子供はおかげは頂ききらんと私は思う、ようにです神様の切々たる思いというものが様々な形に、場合には難儀という形になって現れてくるのでございますから、そこを悟らしてもろうて、ね、そしてそこから立ち上がらしてもらう、その思いに沿わして頂く、天地の心を心としての信心、親神様の思いを思いとしての信心、思いを分からしてもろうて思いに応えて行こうとする信心、そこから金光様の信心が成り立っておるのですから、ね、ですから私がここに、初心の方が来ると必ずそれを申しますことなんですけれども。
  今日も先生方の会合の、あっておりました、こっちょっと立たして頂いておる間に、お話しはどんどん進んでおりました、で若先生が話しております話しの半ばからでしたけれども、とにかく御取り次ぎをさして頂くということは並々ならんことだと、実にようにならんことだと、大変難しいことだというのである、人が助かるということは、ね、それをおかげを取り次がして頂くということは大変なことだといったような話しをしておりましたから私は中でも申しました、「あんたどんがそげな事思いよるけん人が助からんたい」って言うた、ね、「人が助かるじゃないって、問題はね、問題はあなた達教師一人一人が助かることなんだて、あなた方が助からずして人がたすっ、取り次ぎ助けることが出来るもんですか、あなた方が助かること、全ての事柄の上に自分がいよいよ助かって行くことのための精進をなされなければいけん」ね、例えば、ある大きな教会の、これはスローガンと思われる、神願成就と、神願成就ということを御祈念の時に何十回というて繰り返し拝まれるそうですね、神の願いが成就するということ、ね、それは世界真の平和で、ありに違いありません、世界総氏子の助かりに違いはありません、けれども総氏子が助かる、世界が真の平和になる、とてもとてもじゃないが、おそらくはね、人間がこの世にある限りですね、そういうことはとても出来ようとは思われないけれども、それが例えば良しどのように世界が乱れても、ね、どのような場合でもその中にです助かって行けれる道があるんだと、それがここの御信心なんだ、だから御縁を頂いた限りです、その縁のいたをたぐらしてもろうて、まずね、世界総氏子の中に一人である私が助かる以外にはないのだ、ね、私が真実助かること、神願成就神願成就と言うて、そういう大きなこともねごっ、もっ、勿論でしょうけれども、神様の願いというものは、「氏子ままい一人が助かってくれよ」というのです一人一人に対して、それが神の願いなのだ、ね、「真実お前が助かってくれよ」とこういうこと、ね、ですから人が助かる事ということでも自分自身が真実助かることのためにです、どのような中にあっても、自分がそこに助かって行けることのために、信心精進さしてもらわにゃならん、そしてそういう心で、言わば、他を願って行かなければならん、例えば恋人の場合であるなら、自分自身が真実助かることのために、信心の稽古をさしてもろうて、そしてそういう心で親のことを願うと言うんですかね、まず神様の願いというのは、ね、氏子一人一人、それも御神縁を頂いておるお互いが、一人一人が、ね、真実助かって行くことを願いとしなきゃならん、自分が助かって行く、そこからですね、私は多くの人がそれにつながって助かって行くおかげを受けられ、と言うてお話しをしたことですけれどもね、まず何と言うても、御信心を頂いて、縁を頂いておる人自身が信心によって助からなければならない、その根本になるもの、それは神様の思いを分かって思いに沿うて行く信心、または生活がなされて行かなければならん、ね、それは例えば小さいささやかな、ね、人間の親子関係のことから思うてみてもそうである、東京の母親からこちらへ、えぇ残しておる子供に対するところの切々たる願いというものをです、この手紙読ませて頂いてです、親の願い思いというものはこれなんだから、もしこれを裏切ったりこれを、例えば無視するようなことであったら、その子供は助からん、ね、その思いに応える、例えば、生き方というものが、それで私がね、私がその初心の人にいつもあのこれは申しますことですけれども、ね、「本気で親孝行する気になりなさい」って私が、「親がどうであっても、本気で親が喜ぶためのあり方になりなさい」、「親不孝してやりまっしょ」と、「親がいっちょ心配するごと苦労するごと」というような子供は、(?)なるもんじゃない、ね、まあ言うたら「ないが」と言うことが本当と、「親に不孝してやりましょう」と、孝行せんならんことは分かっておるけれども出けんのだ、ね、だから信心さして頂くならもう、どぉう、もう本気で、その親に喜んでもらう、安心してもらえる、ね、本気で親孝行しとうてたまらんという気になって願いなさいと、これならもう誰にでも通じる事だと思いますから、私がそんな風に申しますけれどもね、確かにそうなんです、ね、そこから私は頂けれるところのおかげでなからなければ本当のおかげじゃない、金光様の御信心によって頂くおかげというのは、ね、親の心が分かり、ね、親に本当に喜んでもらおうという心掛け、そこから天地の親神様の心が流れてくるように分かって来る、その思いに応える信心、ただ部分的にどんな素晴らしいことが分かっても、どんなに素晴らしい修行が出けても、それはね本当の金光様の御信心の有り難さに、有り難いというものに、いや根本に触れることが出けないのですよ、信心はとにかく親に孝行するもやはり同じ事ぞやとこうおっしゃるように、子供を持って合点せよとおっしゃることは、親を持って合点せよと、子供は持たん者もあるから分かる、「私共は子供を持ったことがないから」ってね、親を持っとらんという者はあるはずはないからね、だからその、親を持って合点せよと、親の思いを悟って合点せよと、ねその、親の思いが分からんところに、親を蔑ろにしたり軽う見たりするわけなんだ、ね、どうぞ一つ金光様の信心は、そこのところから出発した信心でなからなきゃならんと思うのですよね。            どうぞ。